怒らない
怒らない
おこらないと読まず
いからない
いからず、えばらず、ただただ謙虚に
時には怒りも必要だとおもう
怒りの映画はそれを感じさせてくれた
どうにもならない怒りは時として
現実と向き合うことを拒み
辛い波が押し寄せるようである
解決方法など考えず波にのまれながらももがき苦しみ乗り越えれば
世界が変わって見えてくる
人生はその繰り返しなのだとおもう
一つの絵のような四季の風景
映画館から出て
渡り廊下から見る札幌一つの絵のような風景は
道路が長くのびて向こう側に山があり
ジャンプ台が霞んで見えた
その風景がとても澄んで見えて
悲しくもあり
涙を流した分
さっぱりとした澄んだ気持ちであった
おこらないではなく
いからない
怒りを持ってもどこか清々しく
清い心で受け流していきたい
手術
手術は全身麻酔がいい…。挿管せずに静脈から薬を入れて眠らせて欲しい。
今回の手術は切実に思った。
しかし私の受けたカテーテル手術は意識がないとできない手術であり心臓に電気を通して動悸を誘発し本人に聞きながら行わなければいけないという。。
久々のバルーンカテーテル留置も結構痛く留置した後も尿意をもたらして大変でありまた刺激?で便意をも催す始末…。
左の鼠径と左鎖骨下にカテーテルを挿入するための局部麻はことさら痛かった。
まず薬液が痛いのだ。深部まで針を刺し薬液を入れるのはもう激痛でしかない。
太い静脈からカテーテルを入れられるのは感覚がないと思っていたが長いスネアが体の中に入る感覚はわかった。左鎖骨下から喉に引っかかる感じがあった。
左鼠径と左鎖骨の作業は1時間ほど
これで終了と思いきや右鼠径からも穿刺…
これが非常に痛く…もう局部麻酔はないと安心していたからだとは思うが悲鳴に似たものをあげてしまった。
その後に1時間色々操作して不整脈の電極を探しているのだろう…
2時間30分経過からだろうか…
ドクターたちの会話で「ここじゃなくて心室のほうじゃないか?」とかちょっとした雑談が聞こえ、それでスイッチが入ったように
急に体を動かしたい気持ちにかられどうすることもできなくなった。
どうしよう体を動かしたい、、、
どこかでもう少しで終わるとおもった矢先に
まだ手術が終わらないとおもわせる言葉…
絶望感に似た感情が理性を失う。
動きたいと上半身を捻らせると背中にピタッとついたシート剥がれまたそれがひっつくと気持ちが悪い。剥がしたい動きたいと少し動く。
そんな私をドクター2人が動いちゃだめーと両膝を抑えられ食い止める。
これがちょっとしたパニックなんだろう…
なんとか介助のナースに声がけしてもらい動きを止め事なきを得たがもうこんな手術はこりごりだ。
医大で切迫早産の時はどんな痛みでも乗り越えられたのは娘がお腹にいて守るべきものがあったからだろうか…。痛みに弱い自分とパニックを起こす自分に向き合えた。
今回の手術で私はこれからの私に向き合えたらとおもう。
下肢の拘束のつらさも味わった。たった4時間なのに辛いのだ。
1日、いや、1週間、2週間拘束される患者の気持ちはどんなに辛いことか…
精神が混迷したり錯乱していても辛いことには違いない。
あともう一つ大きなこと
いやなことが続くとどうでもいいや長生きしなくていいやと思っていたが
死にはしないであろうアブレーションを受けてる最中「このまま死にたくない」思いに駆られた。この感情はずっと忘れないで行こうと思う。
動悸
最初の発症は19歳の頃
1人元炭鉱の街で看護学校に通っていた
1人と言っても下宿で一日中仲間と暮らさなければならなかった。
高校生まで住んでた札幌が大都会で恋しくてたまらなかった。
そんな時期に動悸が始まり
フルマラソンをずっとしているみたいに心臓が跳ねて脈は1分間に160も打った。
病院つきの学校だったので発作が起きた時
内科の先生に診てもらい
突発性上室性頻脈と診断された。
心房の方で起こる発作だし悪いものではない
放っておけばいつかは治ると言われた。
しかし発作が起きている時はとても辛く
ピタっと止まったあとはぐったり倦怠感が襲った。
多分過呼吸発作と似ているんだろうな…と思った。だからほんとに過呼吸起こしている人の気持ちがよくわかる。
違う土地でまた学校に入った時は
お酒とタバコが近くにあり
発作は起こり易かった。
その時循環器科の先生に
手術で治す方法があると言われたが
鼠径からカテーテルを入れて心臓まで到達させて発作が起きてる伝達物質?を焼いて治す方法を教えて貰ったが死ぬほど恐ろしいので
この発作に付き合って行こうと思った。
この心臓でお産や卵巣の手術も乗り越えてきたのでちょいちょい起こす発作もタバコとアルコールが行き過ぎた時にしか出ないので…と思っていたが
40後半の歳になり生理不順、更年期障害も見え隠れし心臓がばふらめくことが頻繁になった。
1番辛いのは夜勤。
夜勤中動悸にやられたまらない時があった。
死にはしないけど死ぬくらい心臓が高鳴る。
1分間に160回を4時間続くとへとへとであった。
ある日夜勤前にスマホを見ているだけなのに発作が起こった。
息を止めたり頸動脈を抑えたりしたがなかなか止まらなかった。
これはいかんと夜勤前に循環器病院にかかり
再び診断をうけ手術をすすめられた。
手術はやはりためらった。
たまたまいた北大からの出張医に
このまま帰っても行かないでしょうと無理矢理な感じで北大に予約を入れてもらい…本腰で手術をする事になった。
手術と言ってもカテーテル手術。
お腹や胸を開くわけじゃない。
ぶっとい針を鼠径部に刺すだけ…
そう刺すだけ…で電極で心臓をちょっと焼くだけ…
怖い…な…けど頑張る。娘たちのため。
北大の先生に渡す前に紹介状をこっそりのぞいてみたら
本人乗り気ではないですが若干年齢が若いためアブレーションを勧めた次第ですと。
喜んでいいんだか悲しんでいいんだか…
まあこれからも元気に生きていくために頑張るとする。
東京
東京は住むところじゃない
呪文のように聞かされていた
口を揃えたみたいに言うもんだから
東京は魔物が住むくらいに思っていた。
東京の大学のほうが簡単に受かるよという高校の先生の助言も
いいえ私は自力で道内の学校を受け北海道から離れませんと言っていた。
それを拭払するようなことってあるんだ…
四十半ばにして東京の虜になってしまった。
いやちがう、
会いたい人に会いに行く。
人生悔なく…という言い訳を自分の中でして
ひとり東京に行く。
家族と東京に行くのとはまるで違う東京
現実とは違う感覚。
羽田からモノレールに乗りそこから見える風景は植物が絡むベランダに洗濯物が干されており、その下の公園では子供たちがサッカーをして遊んでいた。
日常の風景だろうけれど田舎者にはカルチャーショックに似たものがある。
立ち並ぶビルのスレスレにモノレールが走りそのビルのベランダにも洗濯物…すごい不思議な光景にわくわくしていた。
山の手線の乗り換えも3回目になると体が覚えておりまるで地下鉄東西線乗り換えと同じ感覚になっていた。
到着した新宿東口は「私は人混みに酔う」と豪語していたにも関わらず波に乗って歩き
逆にスキップしたい気分だった。
ドブ臭い匂いも平気。すすきのでもそんな匂いがするし。
地下で繰り広げられるイベントは異様な感じより同じ空間にいられる多幸感が勝っていた。
東京でどこに泊まって…どこの駅に乗って…とまるでお泊まり会の計画をたてるみたいに東京の格安ホテルを検索するのが趣味となった。
いつの間にか会いたい人はそっちのけでそんなことばかり考え、つないでくれた素敵な女友達、素敵な飲み屋にいくのがこの上ない贅沢だった
終電近くまで飲んでギリギリ東京の電車に乗る
乗り越えを間違えてもう乗る電車がない
終電の点滅する文字
大都会の白金台駅のホームにたたずむ
あぁ私は今一人なんだと思った
仕事帰りに飛行機に飛び乗って一度泊まりたかったホステル
浅草に着いたのは23時
誰もいない浅草の街道をテクテク歩く
一人だけど楽しかった
ようやく辿りついたホステルは外人が多く
匂いに咽せ返りそうだったが
初めての体験ばかりで寂しいとか辛いとか
どこかに吹き飛んで行った
そんな東京…
いろんな思い出を作り東京とさよならする
復路でみるキラキラした夜景の上を旋回しながら飛行機は上がり窓から下をのぞく
東京の夜景をまたみたい